個人的な研究としてエッセイの人名ピックアップを行っている。今回、その中で決して多いとはいえない名字の「五十嵐(いがらし)」さん三人について紹介したいと思う。
一人目は健治さん(1877~1972)ドライクリーニング白洋舎の創設者。詳細は『夕あり朝あり』に譲るが1956年、恋人の前川正や恩人の西村久蔵を相次いで亡くし憔悴していた病床の綾子を東京から飛行機で複数回、訪ねた。そんな健治を当初、綾子は「ぜいたく牧師、ひもつき牧師」と誤解し、冷たく対応。「あなたは金持ちですか私は金持ちなんて恐ろしくありません」という失礼な手紙を送ったこともある。ちなみに『続氷点』の茅ヶ崎のおじいさんのモデルであることはファンなら常識。
二人目は広三さん(1926~2013)37歳で旭川市長となり「旭山動物園」の開業、「平和通買物公園」の開設などを実現した。また中原悌二郎賞、小熊秀雄賞を創設。市長辞職後は北海道知事選挙に二度にわたり立候補するも落選。選挙戦では綾子が道内各地で応援演説を行ったことがエッセイでたびたび紹介されている。最初の市長選で街頭演説していた広三が当時、雑貨屋の綾子が鋭い意見を言ったことをおぼえていたとも書かれている。のちに衆議院議員を5期つとめ、細川内閣で建設大臣、村山内閣では官房長官を歴任。国有地であった場所にスムーズ(?)に「文学館」が設置されたのは広三の神通力あったのでは?と私は思う。なお『果て遠き丘』で西島と恵理子の結婚式で祝辞を述べるのが「五十嵐」教授なのは北海道東海大学(2014年閉校)の誘致に尽力した広三にあやかったものである。
三人目は久弥さん(1907~1984)代用教員から農民運動の指導者となり、開戦の年に治安維持法違反で懲役5年の刑を受け、終戦後、釈放された。のちに北海道農民組合連盟を創設し共産党に入党。国政選挙や旭川市長選などに、たびたび立候補。綾子が久弥を初めて知ったのは高学年の頃。歩いて一分の所に久弥の家があり、牛乳も配達していた。天皇が旭川に来られる直前、警察に連行されたという噂を聞き、子どもの綾子にとっては不気味な存在であった。しかし、初めて見た久弥は哲学者めいて美しいという印象。戦後、前川正に紹介された「旭川アララギ」に久弥の名前があった。前川はクリスチャンであったが共産党の主導する平和懇談会にも参加しており、かなり熱心な久弥ファンでもあった。市長候補となり、間際になって候補を下りた選挙で、前川は「五十嵐久弥の馬鹿野郎と書いて投票してきましたよ」と綾子に語っている。また前川は<クリスチャンの日和見主義を反動と言ふ五十嵐久弥の太き声吾に向く>という短歌を「旭川アララギ月報」に寄せている。1972年2月に綾子は久弥と村上国治(白鳥事件の主犯。最高裁で懲役二十年の判決。1969年11月仮釈放)と料理屋で昼食を共にしている。また1981年12月に久弥は映画「塩狩峠」六造役の永井智雄と共に綾子宅を訪れている。1984年8月15日、久弥が永眠。綾子は広三と共に葬儀に参加し、悲しみを分かち合った。久弥には自分を拷問した特高刑事と長年、年賀状をやりとりしていたとのエピソードがある。『氷点』の辰子の恋人のモデルでもあり『銃口』や『続泥流地帯』などにも、それを感じさせる人物が登場している。今回、三人の「五十嵐」さんを紹介したが他に朝日新聞学芸部長の「五十嵐智勇」さん、北海道新聞旭川支社長の「五十嵐健二」さんの二名がいることを付け加えておく。三浦文学に欠くことのできない「五十嵐」さん。名字ランキングによると118位であるとのこと。
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