【案内人ブログ№100】(2026年1月)ツルアジサイの白い花の下で 記:三浦隆一

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今日(2025年12月14日)の韓国の若者の案内は、自分がしたかった案内に少しは近づけたかな、と思えるものだった。近年の韓国社会は世界一の出生率低下にみられる通り、日本以上の無縁無希望社会である。その韓国から旭川に来る観光客はコロナ禍を乗り越えた後は順調に回復しており、特に三浦綾子記念文学館においてはその増加が著しい。今回のブログは全般に渡って殿平善彦氏の『和解と平和の森』の紹介と報告である。幌加内町朱鞠内に昨年できた「笹の墓標強制労働博物館」はいかにして出来たのかのルポルタージュでもある。まず、近代日本がアジアに仕掛けた「植民地支配」と「侵略戦争」という暗黒の歴史を振返ってみることにしよう。

明治維新と共に始まった大日本帝国は、翌年の1869年に蝦夷地を北海道と改めて植民地主義をスタートさせた。79年に琉球に軍隊を派遣して、琉球王国を排して沖縄県を設置する。95年に日清戦争の結果として、台湾を植民地とし、1910年には朝鮮を植民地にした。帝国の利益の為に他者を支配し、収奪する植民地主義、軍国主義政治は31年の満州事変からアジア大平洋戦争まで、中国を主な戦場として15年におよぶ侵略戦争を起こした。日中全面戦争(1937〜45年)が始まる直前の1935年から第2次世界大戦終結までのあいだ、朱鞠内は朝鮮人強制労働と土工部屋(タコ部屋)労働の現場で、多数の犠牲者が出た。

植民地支配と戦争がもたらす人間を非人間化する無残な出来事が朱鞠内でも容赦なく起き続けた。同じ時期、オホーツク海沿岸の猿払村浅茅野で行われた飛行場建設にも、多くの朝鮮人労働者が強制労働をさせられた。強制労働は北海道だけではなく、全国各地で行われ、多くの犠牲者が出た。こうした過酷な因人労働は世論の批判もあって明治中期に終わるが、その後の北海道開拓の底辺労働を担ったのが「土工部屋」で「タコ部屋」とも称された。土木工事をはじめ、炭鉱労働,港湾人夫などでも強制労働があった。本州や道内の主要都市には周施屋(就職、雇い入れの世話をする商売)があり、失業者や苦労生を甘い言葉で誘って遊興させ、借金を背負わせてタコ部屋に売った。日本は日中全面戦争以後、徴兵によって労働者不足が生じ、国家方針として朝鮮人の労務動員が始まった。38年からは「募集」方式、42年からは「官斡旋」方式、44年からは「微用」方式へと動員方式を拡充強化しながら敗戦まで続けられた。日本政府の統計でも71万人も超える強制動員があったとされ、北海道には14万5千人が動員された。

話は変わるが、1997年の8月に「日韓共同ワークショップ」が朱鞠内で行われた。韓国、在日コリアン、日本人の参加者を合わせると100人になる若者が寝食を共にし、遺骨発掘に励んだ。この時の経験が、後の「東アジア共同ワークショップ」へとつながっていく。大日本帝国という国家が推し進めた戦争と植民地支配によって命を奪われた強制労働の死者は、長く朱鞠内の土中で無視され続けてきた。戦争を遂行した政府や、若者を連行して使役した企業は死亡した犠牲者を放置し続けた。その地の近くに生きてきた私たちも、死者の存在を知ることなく過ごしてきた。親や兄弟、妻や子どもにも再会できず、惜しまれ悲しまれることもないまま土中に埋められた人は人生を全うしたとは言えないだろう。人は死に際して、身近な人から惜しまれ、悲しまれ、悼まれて初めて死者になる。物のごとく見送られることもなく埋められ続けた死者は、死ぬことさえも中断されたままなのではないだろうか。第2次世界大戦において軍国主義国家日本が強要した戦争にまつわる死者は膨大である。日中戦争、アジア太平洋戦争敗戦後、日本政府は戦死者の遺骨収集を続けているが、240万人の戦没者のうち今も112万人の遺骨が沖縄やアジア、南方の地や海底に残され収集されずにいる(浜井和史『戦没者遺骨収集と戦後日本』2020年)敗戦後の日本は、戦争で強制。された非業の死者の存在に目をつぶってきたのだ。朱鞠内の発掘は、政府だけでなく日本社会に住む私たちも無視してきた過去の非道の一部をあらわにした。

発掘に参加した韓国人、在日コリアンの若者たちは歴史との関係から言えば植民地支配による被害の歴史を背景に責任を問う立場でやってきたと言える。しかし死者の親族ではない戦後生まれの若者は直接の被害者とは言えない。日本人の若者たちは歴史との関係において加害の側に身を置いてきたといえるが、敗戦後の日本社会に生まれた彼らは過去の事件に関与することは不可能なので、直接的な責任を自覚することは困難だ。そんな彼らに歴史への参画を促したのは、強制労働の末に死を強要され、忘れ去られて物のごとく埋もれ続けてきた死者の存在としての遺骨だった。遺骨の死者は土中にあり続けることで、死者にすらなりきれないまま若者たちに発掘されるのを待っていた。韓国、在日コリアン、日本、アイヌの若者たちは歴史において対立の関係におかれながら、地上に導かれた報われない死者と向きあうことで、死者に対して何ができるのかを共同で考えなければならない関係に入った。日韓共同ワークショップが実現したのは犠牲者の遺骨を共同で発掘することと共に参加者の尽きない対話の日々だった。ワークショップが1997年の朱鞠内で終わらず継続して開催されていく必然性は、発掘され、未解決のまま残された遺骨たちによって、東アジアの青年たちに連続する対話を求める連累(注1)の自覚のうちに運命付けられていたといえるのではないか。

2021年の10月から23年10月までの2年間にわたり続けられた「笹の慕標全国巡回展」が開催された。この巡回展の2番目に三浦綾子記念文学館が会場を提供したことは記憶に新しい。和解と平和の森に三浦綾子記念文学館もつながることができたことをとても嬉しく思っている。今年も又、貝本林には6月頃にツルアジサイは咲くことだろう。韓国から、日本全国から来るお客様と出会うのをとても楽しみにしている。

最後に殿平氏のこの本は次のような言葉で結ばれていることを記しておく。「大日本帝国が起こしたアジアへの戦争と殺戮、植民地支配への戦後における反省なき忘却は現代につながる植民地主義である。今日の世界は新たな戦争と植民地主義の時代を迎えようとしているかのようだ。ヨーロッパでも中東でも、戦火を止めることが出来ない。ウクライナでもパレスチナでも無辜(注2)の市民が命を奪われ続けている。東アジアにおける戦争の危機も深まるばかりだ。私たちは今こそ国境を越えて繋がり、朱鞠内から植民地主義の闇を照らし、和解と平和の未来を見晴るかす一筋の光になれたらと思う。『笹の墓標強制労働博物館』はその博物館はその発信基地として生まれた。」

参考文献  殿平善彦『和解と平和の森』(高文研、2024年)

(注1 連累) テッサ・モーリス・スズキが提唱した概念で、自分には何ら歴史的な責任

    はないにも関わらず進んで引き受けようとすること

(注2 無辜) 何ら関係がないこと

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