【案内人ブログ】No.69(2023年5月) 今求められている知里幸恵 記:三浦隆一

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 今年2023年3月「大雪と石狩の自然を守る会」と「旭川サケの会」は合同でアイヌの儀式「カムイノミ」を行い、旭橋をバックにサケの稚魚を放流した。秋の「カムイチェップノミ」は昔からアイヌがやっていた伝統的行事であるが、春の放流の為の神事では本来なかった。その事を考えていくと日本人がアイヌに対してしてきたことが、見えてくるのである。『アイヌ神謡集』の序文にみる知里幸恵の文章は美しいだけではなく、人の心を動かす力を持った不思議な文章である。幸恵の生涯は19年と、とても短かったが珠玉の1冊だけを残し、今も生きる幸恵の魂は何かを訴えている。

旭川市の近文は陸軍第7師団の設置をめぐって「近文アイヌコタン事件」という明治時代最大のアイヌの抵抗が起きた地である。 

そして皇民化を目指しアイヌ語を禁じたアイヌだけが通う学校「土人学校」が設立された。現在の北門中学校のある場所である。ここから当時(大正4年)設立されたばかりの女子職業学校へ片道2時間をかけて幸恵は歩いた。約6㎞の距離を雨の日も、雪の日も歩いてである。心臓の弱い幸恵には負担が大きかっただろう。幸恵にアイヌ語を教えたのは金成マツとモナシノウクという2人の祖母だった。この点に堀田綾子に物語を語って聞かせた母方の祖母と共通した運命的なものを感じる。ある日2人の祖母を訪ねて旭川に金田一京助がやってきた。

そこでモナシノウクの語るユカラを聞いた金田一は驚くのである。そして幸恵の習字や作文を見て欲しいと持ってくるマツ。作文を読んだ金田一は、その優秀さに思わず目を見張る。マツが幸恵を指して言う。「この子はおばあさん譲りのユカラをうまくやるのだ。」と。“ほう”と見やる金田一に幸恵は真剣な表情で次のように問いかけた。「先生は貴重なお時間とお金を沢山お使いになってユカラの為にお骨折りくださっています。私どものユカラというものは、そんなに値打ちのあるものなのでございましょうか。」

見つめる幸恵に金田一は全身全霊で説明をした。「ユカラは世界に誇る叙事詩である。古代ギリシャ人やローマ人に負けないくらいに偉大な長篇を持っているアイヌは決して劣等民族ではない。文字以前の文学を伝えている貴重なアイヌ語は人類の宝であり、それを遺す為なら自分は全財産を費やしても惜しいとは思わない。」

と。その言葉を身じろぎもせず聞いていた幸恵は涙をためて次のように言った。

「私たちはアイヌのことと言ったら何もかにも恥ずかしいことのようにばかり思っていました。今、目が覚めました。これを機に私も祖先が残してくれたユカラの研究に身を捧げたいと思います。」

三浦綾子記念文学館特別研究員の森下辰衛氏も指摘しているように、とても19才の少女が書いたとは思えない『アイヌ神謡集』の序文はこのようにして生まれた。

以後、何十年にもわたって知里幸恵の名は忘れ去られた存在だった。しかし昨今、幸恵を追い求める人々が現れはじめた。その動きは時を追って大きくなり、幸恵によって新しい道を得た人々が確実にいるのだ。

テレビをつけると政府広報がアイヌ民族の女性と思しき人を登場させ「私はアイヌ、私の誇りです。」と言わせている。今まさにアイヌ文化ルネッサンスとでも呼ぶべき状況が生まれているかのようである。しかし私には、人々の関心がアイヌの神事や古式の儀式、古式舞踊といったところばかりに向けられているような気がしてならない。

そうではなく、知里幸恵『アイヌ神謡集』が持つ精神性の方に人々の注意が向けられるなら、それは三浦文学の持つ精神性を理解することにきっと繋がる。おそらくそうだ。

私は信じている。

【参考文献】

小野 有五著『「新しいアイヌ学」のすすめ』

石村 博子著『ピリカチカッポ』

by三浦文学案内人 三浦隆一

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