【案内人ブログ】№74(2023年10月)                   三浦綾子を語らずにはいられない 記:森敏雄

案内人ブログ

9月30日NHKラジオ深夜便のアンカー「明日へのことば」に、“始める一歩が道をひらく”というタイトルで、三浦綾子初代秘書 宮嶋裕子氏が出演した。愛別在住の友人が教えてくれたので、私は聴き逃しサービスでこの放送を聴いた。宮嶋裕子氏(旧姓夏井坂)は1948年中国・大連に生まれた。幼児の頃、一家で旭川に移り住んだと思われる。彼女は小学校、中学校、高校すべて私と同じ学校で、同じ教師たちによって教えを受けた同窓の仲である。私が彼女の2年先輩にあたる。2018年秋、旭川で「宮嶋裕子・みぎわ親子のトーク&コンサート」があった。この中で彼女は中学校時代の恩師、小野寺与吉氏作詞「ふるさとは遠い北国」(「NHKみんなのうた」に採用された)という歌を情感豊かに歌い上げ、会場の人々から喝采を浴びた。小野寺与吉氏は私にとっても忘れられない先生であった。5年前の懐かしい思い出の一コマである。さて、肝心のインタビューだが心に残った事柄を次に列挙してみたい。

□わたしたち夫婦は娘3人を儲けた。

□わたしは極めて好奇心旺盛であった。鼻やのど、上あごの構造に興味があった。

□小さい頃わたしは「セコハンばあちゃん」と呼ばれていた。

□小5の時から、人はなぜ生きていかなければならないかを真剣に考えてきた。

□若くしてクリスチャンとなったが、教会に差別はなく平等であった。

□旭川を離れる際、教会の壮行会の席で、“資金は足りないが神が共についているので……”と挨拶すると、綾子さんが1か月分の餞別をくれた。夏休みに帰省し住込みで秘書の代役を勤めると、報酬として寮費3か月分が与えられた。大きな感謝・感動であった。

□農村伝道神学校の保育科に学んだ。教会附属の幼稚園教諭になりたかった。

□念願の幼稚園教諭になったが、諸般の事情で退職し止むなく帰郷した。その時三浦夫妻は秘書を募集しており、タイミングよくわたしが採用された。不思議な縁であった。

□三浦家は天国であった。綾子さんは褒め方がとても上手であった。

□欠点は見方を変えると長所になる。噓つきは想像性豊かと教えられた。

□結婚後、わたしは茨城で学童保育所を開設した。開設を祝い、綾子さんから大金が贈られてきたので、図鑑24冊セットを購入し、保育などに役立てた。

□綾子さんたちは懸賞金1,000万円を自分たちのためにはビタ一文遣わないという堅い決意があり、それを忠実に実践した。

□わたしは三浦綾子初代秘書であり、後年三浦光世秘書ともなった。

□「初めの一歩が道をひらく」ということばが好きである。最近ではそれに「一歩前へ」をプラスすることにしている。

□来年三浦文学ゆかりの地ツアーで、イスラエルに出かける計画がある。外国旅行はもう無理と思っていたのだが……。

宮嶋裕子氏と私たち三浦文学案内人の関係について考えてみよう。私たちは「三浦綾子」でつながっている。彼女は歴とした「三浦綾子案内人」&「三浦綾子文学案内人」である。彼女は「三浦綾子案内人」に重点を置くが、私たちは「三浦綾子文学案内人」に重点を置く。が、共に双方に対する豊かな知識がないとうまく事が運ばない。私たちに欠けているもの、それは“語らずにはいられない”というまっすぐな情熱ではないだろうか。プロとアマの違いと言えばそれまでだが、私たちはプロの心意気を学ぶ必要がある。癌になって人工あごを装着してまで全国を渡り歩くことが出来るか?NO!イスラエルの聖地にまで足を伸ばすことができるか?NO! 私たちにはいずれも困難であろう。せめては、入館した三浦綾子文学ファンに全力で対応する。再度の入館を勧奨する。友人に三浦文学の魅力を語ってもらう。そういった程度のことしか思い付かない。三浦文学案内人活動もいよいよ11年目を迎えた。これからの三浦文学案内人像はどうあるべきなのか?新しい案内人が急増しており、真剣な協議(討議)が必要であろうと思う。

                          By 三浦文学案内人 森敏雄

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