【案内人ブログ】№76(2023年12月)                 河﨑秋子『絞め殺しの樹』について    記:三浦隆一

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まず本の題名が異形である。樹木とはその場に吃立しているものである。その樹木が絞め殺すとは、とSF的想像力を駆使する人もいるのではないか。種は本文を読んでいくと中盤で明らかにされる。

主人公の橋宮ミサエは、昭和元年に根室で生まれた。著者にとっては祖母にあたる年令であろう。

小説の三分の一は札幌市やその他の土地が出てくるが、残りの大部分は根室での物語である。ところで、根室、特に春国岱のあたりは、バードウォッチャーにとっては羨望の場所である。近年は欧米の観光客も多く、高田勝『風露荘の春秋』では、その辺のところがユーモラスに描かれている。しかし、同じ根室を描いても河﨑秋子のこの作品では圧倒的にシリアスさが支配している。デビュー当時に比べ表現は磨かれ、深化し、特に第一章の吉岡家に引き取られたミサエが描かれるあたりのイジメはすさまじく、感受性が豊かな方にはお勧め出来ないとさえ思ってしまう。

最も重要な章である第三章ではミサエの娘の自死が描かれる場面がある。

札幌で薬局に勤めながら、看護婦の資格を得たミサエは故郷の根室に開拓保健婦として赴任する。そこで自分をさんざんイジメた吉岡夫妻の紹介で見合いをしたミサエは、銀行員の木田浩二と結婚した。ミサエは浩二との間に女の子を儲け、道子と名付けた。その道子は10才になっていた。世間では良くあることだが夫の浩二は仕事でいつも帰りが遅いうえに趣味の山登りに余念がなく、あまり家庭を省みない。事実上の母子家庭のようになっていた。ある日ミサエは女の子の悲鳴に近い泣き声を霧の中から聞く。

自分の娘、道子だった。当然ながら自分の娘を心配し、懸命になって諭したにも関わらず夏休みが明けたある日、娘の道子は自殺してしまう。発見した時の場面は非常に凄惨で筆舌に尽くし難い。血を吐き苦痛と共にこと切れて、この子の死ごとわたしも消えることができたらいい、と心情を描写する。

ここにある文章はひとえに作家の持つ鋭い感性が書かせたと言えるだろう。だがここで読者は次のような疑問を持つかもしれない。何が作家にこのような文章を書かせるのかと。この書全体を支配する絶望感は何に由来するものなのかと。しかしこれこそが地域エコノミストの藻谷浩介氏が言うように、人口減少がすすんだ挙句に都会も田舎も残らなくなろうとしている日本社会の現状を反映したものなのである。この作品の最後のところでミサエの息子である雄介と小山田俊介が対決する場面が描かれる。

自分で育てることはなかったが、雄介は自分が貰い子であるが故に、自宅の牛飼いを引き継ぐことしか考えていなかった。ある日雄介はだいぶ前に卒業しているが、大学の先輩である小山田に根室に戻ったら自分の手伝いをしないかと誘われる。だが当然ながら雄介はあっさりと断る。ありえない。だがその後、雄介は自分が忌々しいことではあるが、小山田俊介の甥っ子であることを知ることになる。

更に小山田は道子の自死について、自分の見解を披露する。「この男は何を言っているのだ、その前に笑っただと?」雄介は小学生の時に自死した自分の姉の真実をその時知ることになる。「なんなんだ、あんた」人を憎むやり方にしたって良し悪しはあるだろう。この男は違う方向にねじ曲がりすぎているのだ。怒りに燃えた雄介は小山田に対し啖呵を切る。「あんたみたいな奴に負けるものかよ。」

この先、この社会がどのように変化していこうとも、文学にしかなし得ない領域での表現を待っている読者は必ずいる。河﨑秋子は瞠目すべき試みを行っているように見える。やがては直木賞を受賞する作家であろう。彼女の文章は力強く、人をして読ませる力を持っている。

                              by 三浦文学館内人 三浦隆一

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