【案内人ブログ】№80(2024年4月) 旭川のまちづくりと三浦綾子記念文学館  記:三浦隆一

旭川のまちづくりは、奇跡のまちづくりとも称されている。1991年から、2014年ごろまでの長期間に渡ってつくり上げられた。「北彩都あさひかわ」がそれである。この事業は、都心地区を再生させ、未来に向かって市民が日常的に利用し、全国からの来訪者を迎え入れる都心部つくろうとするものであった。このプロジェクトは広域、さらに全国に対して「旭川ここにあり」という存在感を示そうとするものでもあった。さらには忠別川を挟んで対岸に形成されつつあった駅南カルチャーゾーンと既成都心を連絡しようとするものでもあった。現在の三浦綾子記念文学館が持つ存在は、このプロジェクトなしには語れない。

東京大学工学部建築学科を1960年に卒業し、ハーバード大学に留学した故・加藤源氏は、このプロジェクトを成し遂げたキーマンであっただろうが、その名前は一部の建築家にしか知られていない。しかし、丸亀・広島のプロジェクトで自分のアーバンデザインへの情熱を具現化できなかった加藤氏は、旭川ではぜひとも実現させたいと考えていた。具体的には、計画を固め、事業化しようとする段階の前捌き、すなわち総合調整者である加藤氏が扱える項目、範囲を極力拡げることであった。 法政大学デザイン工学部都市環境デザイン工学科教授の高見公雄氏はこのように書く。 「旭川市との間で議論、調整が進められた。常に、それが叶えられないなら、この仕事からは手を引くと私たちは構えていた。」

今から思えば、大変な強気であったとは言えるが、「それに旭川市はよく応えてくれた。内容の決定についてはほぼ全権、その後の業務発注についても事前相談というような立場が民間プランナーである。」と語られる通り、重要な権限が加藤源氏に与えられたのであった。調整により生み出された都市空間などと言われても、詳しく説明されないと分からないし、必ずしも良くは見えないかもしれないが、このプロジェクトの骨格は、初期に議論をし尽くし、河川環境をまち中に引き込むとのコンセプトに基づきつくり上げていったということに極まる。「このしっかりした都市基盤、環境基盤はなぜつくり得たかといえば、この20年余りに渡り、加藤氏を全体調整役と位置づけ、私たちを途切れなく、このプロジェクトに関わらせてくれた旭川市の取り組みの成果であった。」

旭川のまちの真ん中、駅のすぐ裏にある忠別川は美しい川である。ところが、この川の豊かな環境は鉄道に分断されて、市街地と切り離された存在となっていた。この駅周辺の整備をどうにかして成し遂げなければならないというのは、長年の旭川市の悲願であった。旭川のプロジェクトは加藤源氏の目指す「都市デザイン」の集大成でもあった。「氷点橋」と名付けられた橋を真っすぐ南に向かうと、やがて「三浦綾子記念文学館」に辿り着く。事前に連絡をくだされば、私たち「三浦文学案内人」がお迎えします。また、「案内人」は見本林の案内も自分達の業務としています。外国樹種見本林の美しさも、ぜひ味わっていってほしいと思っています。

最後に、アメリカの環境問題を告発した『沈黙の春』(1962年)の著者レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(1965年)の一節を紹介して、このブログを終わらせたいと思う。 「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう」(上遠恵子訳、新潮社版)。できることなら文学館には、6月13日から始まる「河﨑秋子展」が観られる初夏の頃に来られることをお勧めします。

そして、今から11年前の6月に73歳で亡くなられた加藤源さんのことを、思い出してくださると良いと思います。「北彩都あさひかわ」は2014年度の日本都市計画学会・計画設計賞、2015年の土木学会デザイン賞最優秀賞、2015年度の都市景観大賞・国土交通大臣賞(都市空間部門)を受賞したが、授賞の場には加藤さんは、居なかった。

※参考文献

『北のセントラル・ステーション』加藤源、高見公雄、篠原修編著

『旭川駅周辺開発シンポジウム報告書』(非売品)

                          By 三浦文学案内人 三浦隆一

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